考えたこと、気に入ったことなど勝手な呟きと写真をアップします。

(独断と偏見に満ちています)

所有観(自分のもの)と共同体感覚は繋がるのか?

 

 

 アドラー仲間と会合(飲み会ですが・・・)に行く道すがら、電車から外を眺めていて「フッ」と浮かんだことでした。

 

 ・・・「自分のもの(所有観)」って何だろう・・・

 

 商品なら主体的に購入して側に置くか、持ち歩いています。自分で作ったものもそうですが「自分のもの」として他と区別するために名前を書いたり、番号を登録したりします。これで自分のもの「所有」が決まります。

 

 店に並べられて買われるまで、または他人から譲り受けるまでは「それを扱っている人のもの」とすることができると考えられます。

 

 モノの、誰かの手に渡るもっともっと前のモノ、それは「誰のもの」になるでしょうか?・・・

 

 ・・・この件、一旦棚上げします・・・

 

 ここで人間の場合の「自分(私)」について考えます。

 

「自分(の体)は自分のものか?」ということです。

 

 自分の体を得て、そこに親や育ててくれた(る)人からそれぞれに名前が与えられます。その人々の影響で意識(心)が造られ(自ら造り?)、自分としての身体(からだ:体と心が一体)をもって「自分(私)」が意識されるようになります。この時点で、「自分」は自分のものになると思います。

 

 では、母親のおなかの中にいる時の自分は、誰のものでしょうか。お腹にいる時も、胎児には外界の色々が聞こえていると言われます。しかし、このときには胎児は未だ自分を意識していないと想像できます。それでここでは一応、母親のものとします。

 

 さて、そこで「受胎するまでは?」と考えると・・・

 

 元になっている精子と卵子の製造元(それぞれの親)が所有者になると考えます。さらにその製造元の親が、それぞれの母親(祖母)の身体に受胎するまでには、今あるその胎児(いわゆる孫と言われる自分)は跡形もありません(波動エネルギーとして存在する、とでも言えるかもしれませんが)。

 

 人間もモノも誰が与えたかと考えることは、結局、人間やモノが存在する世界という空間での話になります。その元(の元)は誰のものでもなく、世の中(=宇宙)のものと考えられる気がします。

 

 「世の中のもの」とすると、世の中のものであるなら世の中に関わり、世の中の循環の中にあるもの、すなわちその中の一要因のはずです。世の中の一部として存在するわけですから、そこで何らかの役割りを担うものであると考えられます。

 そうすると、人間は社会に貢献するために生まれ、生きると考えることができます。それで「誰かの為に何かできた、役に立てた」とき満足感や、生きがい感が得られると考えられるのです。

 

 そんな人、モノにはこんな存在の起源があるのではないかと・・・。

(これはいわゆる歴史と言えるかもしれません。色々なこと(モノ)の歴史を学ぶ意味が、こんなところにもあるような気がします。)

 

 だから、そんな起源のことはお構いなしで、利己的(エゴイスティック)に生きていると周りとぶつかり、居場所がなくなって自分で自分を追い詰めていくのだ、と考えるのです。

 

 単に「世の中(社会)」というのでは大き過ぎます。それで身近な家族、学校、職場、趣味の域などのボランティアなグループのような「共同体」のために何かしていくことが、人間の本来の目的を果たし、結局、自分の幸せ(満足感とか生きがい)に繋がっていくのだろう、と考えた次第でした。

 

「自分は元々周りのためのもの。その使い方は、自分で自分らしい能力を見つけて磨き、個性として発揮していく。その結果として幸福感(生きがい感)が得られる。」

 

 かつては、超利己的だった私(石山)が、こんなことを考える「今」です。

 

・・・チョット長かったです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。